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天狗が見ている

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「面白さ」とは何だったか?

我々が漫画、アニメ、小説――創造的な作品を鑑賞したり制作したりするにあたって、最初に到達するのは、「面白さ」の絶対性という誤謬です。

あなたの周りに、こういった考えを持っている人はいませんか?

  • あらゆる作品の「面白さ」の要素は、その作品内で完結している
  • あらゆる作品を「面白さ」の一次元軸1に載せることができる
  • あらゆる個人は、集団や周辺環境に影響されることなく、あらゆる作品の「面白さ」を正しく判断できる

このような発想は、作品の「面白さ」が作品自身で完結しており、さらに作品固有の絶対量として記述できるという信念から自然に得られるものです。

背景知識や属性によって面白さの評価が変わることを示す図

mortar_board, book, sunglasses, heart_eyes and nerd by Twitter, Inc and other contributors are licensed under a CC BY 4.0.

さて、ここで作品の「面白さ」の変動について考えてみましょう。ある大人気作家Xさんが著した作品Yについて、3人の読者から評価を得ることができました。

  • Aさんは、Xさんの作品を初めて購入した一般的な読者です。もちろんYはそれ単体でも楽しめますが、Xさんの過去作品を知っていればもっと楽しめる部分がいくつかありました。
  • Bさんは、Xさんのファンです。過去作品は全て購入していますし、Xさんのインタビュー記事も欠かさず読んでいます。作品に描かれた内容を十分に楽しむことができました。
  • Cさんは、主に考察記事を掲載するブログを運営しているブロガーです。幅広い知識を元に、作品に書かれた内容から多くの示唆や感情の推移を引き出して、Yをすっかり味わい尽くすことができました。

このような場合、誰が作品の本当の「面白さ」を過不足なく把握できているでしょうか? 幅広い知識で考察記事を書くことができるCさんでしょうか? それとも、作品に描かれたことを忠実に味わったBさんでしょうか? それとも……誰も作品の真の「面白さ」を知ることはできなかったのでしょうか?

もう一つ例を挙げましょう。あるあるネタというのは、視聴者や観客の共感を得ることで笑いを誘う芸の一種です。例えば、遊びに行った友達の家の天井が低いとか、階段が急だとかいうことをネタとして披露するわけです。

あるあるネタを楽しむ大前提として、そのネタに共感できる背景を持っている必要があります。裏を返せば、そういう背景を持っていない人にとっては、たぶんその芸は「面白くない」のです。楽しめない人がいるということは、あるあるネタは「面白くない」芸なんでしょうか?

「面白さ」の表現

こういったことを考慮すると、作品の「面白さ」評価基準Eは、作品Xと読者aの関係で表せることが分かります2

$$E = f\left(X, a\right)$$

ただし、実際には、作品の「面白さ」は読者だけではなく、その周辺環境――世界を含めた関係で表す方が自然です。

それはなぜですか? 「世界」の影響を受けない人はおそらくいませんし、口コミや他人の評価で作品を選び、さらにそれが評価に影響を与えることは実にありふれているからです。また、そうすることで、作家の死没後に作品が有名になる、といった作品や読者自身の性質を離れた事象を記述できるようになります。

ここに至っても、作品Xが本来持ちうる「面白さ」の絶対量、つまりf(X)の存在を信じて疑わない人がいます。あるいは、この式の存在は認めながらも、読者の平均値を与えたり、読者について周辺化することで「面白さ」の絶対量に代えることができる、という人もいます。

さて、それを認めると、もう一つの問題が顔を出すことになります。我々は、いったいどんな読者集合を仮定すればいいのでしょうか? 全人類の存在を考慮して評価すればいいのでしょうか? 数十億人の周辺化はたいへんそうですね。

それについては次節で触れます。

「面白さ」の統計

「面白さ」を「世界」で定式化したおかげで、これをある種の統計モデルとして表現することができるようになりました。現実と乖離した非常に強い仮定を置けば、「面白さ」を平均と分散で特徴づけられた正規分布として表すこともできます。

ここで、ある作品A〜Cの「面白さ」について、P群(N=38)とQ群(N=38)から得られた評価をプロットします。

_P群とQ群が作品A~Cの面白さを評価したところ、作品AのみQ群での評価が低かったケース

作品Bと作品Cは2群でほぼ変化がありません。t検定によれば、有意水準5%で平均値に有意な差はないといえます(p=1)。一方、作品Aは2群で大きな差があるように見えます。t検定によれば、有意水準5%で平均値に有意な差があるようです(p < 2.2e-16)。

さて、2群で大きく評価が変わってしまった作品Aは、いったいどんな作品なのでしょうか?

実は、作品Aは、ある中学校の2年D組のEくんと同組Fくんで結成されたコンビ「高輪ゲートウェイズ」のオリジナル漫才です。他の2作品は、中学生に大人気のお笑いコンビのライブ映像でした。

もうお分かりでしょうが、P群はEくんとFくんのクラスメート(N=38)、Q群はこの中学校とは全く関係ない中学2年生(N=38)です。

範囲の狭い「身内ネタ」を見ても、ほとんどの人はつまらないと思うでしょう。彼らの漫才が通用するのはせいぜい同じ中学校の同学年の生徒までです。では、高輪ゲートウェイズの漫才はやっぱり「面白くない」のでしょうか? そうではありません。彼らのクラスメートで閉じている限りは「面白い」のです。作品が想定外の読者に届いてしまうのは、まさに悲劇というほかありません。

このような場合に、作品に閉じ込められた「面白さ」を取り出そうとする思想は、あらゆる作品の評価を難しくします。これは、Nが大きくなっても同じことです。Nの範囲が自分から見える狭い「世界」であれば問題は顕在化しませんが、そこから出た時に(外向きの)合理的な説明を与えられなくなるでしょう。

逆に、狭い「世界」の視点は利点と捉えることもできます。つまり、身内であり続ける限りは、外での評価について気にする必要はないのです。広く受け入れられている「身内ネタ」や「身内ノリ」は、視聴者を巻き込むことで大きな身内を形成している、という説明を与えることもできます。

しかし、「面白さ」は相対的である、という話だけでは不十分です。この説明だけでは、プロのお笑い芸人の漫才と、中学生レベルの英語教諭モノマネの差がほとんどないことになってしまいます。ここで必要となる視点が、「読者」を含んだ「世界」を加えた「面白さ」の指標なのです。読者の特徴や読者数を比較することで、どちらがより一般的に「面白い」かを判断することが可能になります3

では、我々は誰を対象にして作品を作ればよいのでしょうか? それはどこまで行っても限りなく自由です。単に誰に向けて書くのかを考え、何人くらいの読者に向かっているのかを意識するだけで、期待と現実の差による落胆や、無駄な印刷費の出費を避けることができます。

当然、ミリオンセラーを狙うなら、N=1000000程度を想定しなければならないでしょうが……。

「面白さ」の最適化

ここまで読んだあなたは、読者集合を設定した上での「面白さ」の最適化問題を考えることができるようになりました。読者集合Aの下で、最もよい評価を受けることができる作品Yは、以下の式で表すことができます。

$$Y = \argmax_X \frac{\sum_i^{|A|} f\left(X, a\left(i\right)\right)}{|A|}$$

なお、この式では、実際にあなたがどんな作品を生み出せるかについては一切考慮されていません。例えば、特定の読者集合の下では漫画だけが「面白い」作品として受け入れられるかもしれませんが、それはあなたが漫画を描く能力があることを意味しません。

当然、Nが大きくなると最適化は難しくなるでしょう。ただし、読者a(i)をより一般的な表現に分解できるなら、Nの大きさを気にする必要はありません。また、Nが小さくても、a(i)の分析が困難ならさらに難しい問題となります。

Nをあまりに大きくしすぎると、作品とは関係ない部分が重要になるかもしれません。例えば、登場人物の肌の色をばらつかせたりする「テクニック」を知らないと不利になることがあります。ですから、いつでもNを大きくすればいいわけではなく、自分に適した読者の大きさを考える必要があります。読者集合の設定とその「面白さ」の広がりは、ノーフリーランチ定理としてよく知られています。

「作品を作る」とは何だったか?

ここで、具体的な読者設定の前に「作品を作る」という行為自体を振り返ってみます。

読者に寄り添うということ

まず、我々はたいてい「誰に読んでもらうか」を考え、作品の方向性を決めます。もちろん読者を想定せずとも作品を作ることはできますが、読者の視点で内容が練られない粗雑な文章になりがちです。

対象となる読者が決まれば、彼らに合わせた視点を持って執筆を始めることができます。視点獲得の難しさは、作者とのダイバージェンスの大きさによって決まります。特に、自分自身や自分自身と同じような人をターゲットとするなら、訓練はほとんど必要ありません。

作品を生成するということ

作品の方向性が決まったら、実際の制作に取り掛かることになります。想定している読者に対して、「面白さ」の最大化あるいは別の評価基準の最大化、あるいはそれらを束ねた複数の評価基準の最大化を行います。ここでどれだけ読者を単純に表現できるかによって、最適化の難易度が大きく変わります。

作られた作品は評価予測器と接続され、作品に方向性を調整するためのフィードバックを与えます。ここが最も難しい部分です。

ただし、自分自身をターゲットにしているなら、常に自分を評価予測器として用いることができるので非常に簡単です。そうでなければ、発表前に想定読者からフィードバックを得られない限り、あなたが想定読者をエミュレートするしかありません。

作品を事後評価するということ

作った作品がどれだけ売れたか、どんなフィードバックが得られたかを記録し、今後の評価予測に役立てます。

誰に向けて作るのか?

さて、作品を作るにあたって、方向性の決定と評価のエミュレートにおいて読者の設定が重要になるということを述べてきました。本節では、具体的な読者の設定方法のヒントについて考えます。

我々が想定する読者は、様々な性質で特徴づけられます。以下は、性質の例です。

  • 実在するか、しないか。
  • フィードバックがもらえるか、もらえないか。
  • あなたから見て変化するか、しないか。

あなたの視点から見て読者が変化するかどうかは、とても重要なことです。変化しないのなら、あなたの中にある読者像を評価のエミュレートに使い続けることができます。絶対的に変化しないかどうかは、あまり関係ありません。

フィードバックがもらえるのは実にラッキーなことです。もはや、作品の評価予測器を信頼できないエミュレータで代替する必要はありません。しかし、現実的には、読まれてもそもそもフィードバックをもらえないか、具体的なフィードバックが得られないことが多いです。

実は、任意で寄せられたフィードバックによる評価はバリアンスが大きくなることが知られています。普通の人は、ニュートラルな立場で作品について言及する動機がないからです。そのため、悪い評価といい評価に集中し、標本分散が大きくなりがちです。

読者という存在は変化しうるものであり、その反応も非常に把握しづらいものです。いつの間にか趣味が変わっているかもしれませんし、あなたにはよい評価だけ送信しているかもしれません。読者とのダイバージェンスが変化しているかどうかすらも、まだ分からないのです。

こうなると、まず始めに、読者が作品に対してどういう反応を示すかということを、より小さくて単純な事例に分割したくなるはずです。

読者を分解するということ

読者が何を「面白い」と思うかを把握できれば、「面白い」作品が作れる、というのは自然な発想です。読者が「面白い」と思う要素を一つ一つ切り離すことができれば、自分の作品のオリジナリティを保ちつつ、読者の目を引く作品を作ることができるようになります。

ただし、いつでも想定読者を分解できるとは限りません。多くの場合、これは得られる知識を重視するジャンル(評論、技術書、ノウハウ本)や、アダルトコンテンツなどで可能な戦略です。

これらのジャンルに共通する特徴として、作品の要素が分離可能であるということが挙げられます。例えば、「ディープラーニングで駅名生成やってみた!」という記事があったとしましょう。読者はおそらく得られた結果やサンプルコードを読むのに時間を使い切ってしまい、本文に織り交ぜられたジョークに注目する人はそう多くないでしょう。この記事においては、知りたい知識と筆者の楽しいユーモアは完全に分離できるといえます。

アダルトCG作品でも、肌の色や陰毛の有無をキャラクター性から分離することで、褐色差分や陰毛差分といったバリエーションが作られているのをよく見かけますね。このような配布形態は、肌の色や体毛の情報をキャラクター性に組み込んで、本質的に分離不可能なものとした作品においては成り立たないでしょう。肌の色や体毛でキャラクターは決まらない? 本当か?

また、多くのアダルトコンテンツは豊富なタグで検索できるようになっており、それぞれの作品から視聴者が注目したい要素が分離されていることが分かります。

このように、目的が明らかだったり、分離可能な要素を持っているジャンルでは、読者の分解が容易になります。「こういう技術を知って仕事に活かしたい」とか、「こういうセックスシーンを読みたい」という具体的な気持ちを作品に反映するのは、単に「『面白い』作品を読みたい」という漠然とした気持ちを叶えるよりはいくらか簡単です。

例えば、誰もが知りたいノウハウをキャッチーな絵で漫画化したらたくさん売れるでしょう。これは、読者の「そのノウハウを知りたい」という気持ちに注目し、「キャッチーな漫画」で読みやすく仕上げるから売れるわけです。漫画に織り交ぜられたテンポのよい会話やギャグパートは、「ノウハウを知る」という目的に添えられた箸休めにしかならないでしょう。

ただし、これは作品が「知識型」だから成り立つことであり、エンタメ寄りの作品がキャッチーな絵だったからといって常に売れるわけではないのです。

読者を分解できないということ

読者を分解できれば、誰でも「面白い」作品を作れるということは分かりました。しかし、作品の分野によっては読者の分解が難しいことがあります。それどころか「読者」と「世界」の分離すら叶わないことがあります。特に、エンタメ作品ではその傾向が顕著です。

そして、残念なことに「世界」には作者も含まれています。つまり、作者が嫌いなので作品も「面白くない」という評価を下してしまう人もおそらくいるでしょう。それとは逆に、作者の人柄が好きなので作品が「面白い」という人もいるでしょう。

このような場合では、作品の「面白さ」を追求するよりも、作者としてのキャラクターの露出を工夫したほうがよいかもしれません。

さらに残念なことに、「世界」には周りの読者も含まれています。彼らは相互作用しあって大きなうねりを形成します。その中で、もはや作品の存在自体はおみこしに載せられた御神体以上の意味はありません。おみこしを担いで熱狂した群衆になら、小さなトルネードポテトを1000円で売りつけることも可能でしょう。

このような読者は「ニュートラルな視点で見ている」と思い込みながら、作者や周辺環境を考慮した評価を下してしまうことがあります。例えば、曖昧な表現や大げさな表現を使うことで、容易にこのような状況を引き起こすことができます。このような状態で作品についての意味のある評価を取り出すのは難しいでしょうし、そもそも作品自身を調整することによって得られる効果の範囲が非常に狭まります。

こういった場合には、読者に対して仮定しなければならないことが非常に増加します。先に記した「面白さ」の最適化のための式はもう無意味となってしまいました。a(i)とa(i+1)が互いに影響を及ぼすかもしれないからです――つまり、もはやそれぞれの観測は独立ではありません。

そのようなケースでは、読者に対する素朴な分割や、独立を仮定した素朴なエミュレートは意味をなしません。

とはいえ、読者を想定した相対的な「面白さ」に注意する、というフレームワークはまだ失われません。大きな読者集合Aの下で作品Xの「面白さ」評価基準f(X, A)を最適化すればよいのです。これで、少なくとも迷走した独りよがりな作品になるのを防ぐことはできるでしょう。

ただ、あなたに力があるのなら、自分が作りたい作品のブームを引き起こす方が簡単かもしれません。そうすることができれば、作品の評価予測が非常に簡単になります。

あなたが好きなジャンルでは、大げさな言葉や曖昧な言葉を振り回して、意味のない喘ぎ声を上げたりしていませんか? みんなでワイワイすることが楽しくて、作品をおみこしに載せて満足していませんか? お前は、誰なんだ? 自分の言葉で、語れ、ウゥ……。

でも、もしそのようなトラディショナル・ジャパニーズ・乱交パーティが繰り広げられていたとしても、それはそれでかまいません。それも一つの楽しみ方なのです。読者に合わせて進化しなければ、作品の未来はないのですから。

最適解

  • ツイッターをやめ、インスタに街や食い物や海の写真をアップロードし、自分や自分が好きな人に向けて自分が大好きな創作を書く。

以上。


  1. そうでなくても、少なくとも解釈可能なレベルの空間。参考: 1033811429663502336 

  2. 「面白さ」だけではなく、多くの作品評価量に当てはまります。 

  3. たいてい、我々はそれを無意識のうちに行っています。 

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