すみません。お隣よろしいですか? あなたもお一人なのですね。
そうですね。少し気になったというか、昔の知り合いとよく似ていましたので。
聞きたい、ですか? 別にかまいませんが、すごく面白い話ではないのです。ただ、呪術から抜け出せない滑稽な大人のお話ですから。いいですか? それなら……ミックス・ナッツの皿も空になってしまいましたし、お酒のあてくらいにはなるかもしれません。
最初に少しだけ、手を見せてくださいますか? あなたのような女性の手、好きなんです。
綺麗な手……ですが、ここがちょっと硬くなっていますね。なるほど、ペンだこですか? 真面目だったんですね。
いえいえ。怪しい宗教だとか、妙なマルチ商法に引き込もうというわけではないのです。
呪術という言葉選びが悪かったですね。
昔、友達と色んなごっこ遊びをしませんでしたか? 横断歩道の白い部分を踏み外すと、鮫に食べられてしまうとか。あるいは、影だけを踏んで歩かないと、太陽に身体を焼かれてしまうとか。こういうおまじないの類を、呪術と呼ぶ癖が付いているみたいで。
子供のおふざけって不思議ですよね。わざと鮫や太陽のような荒唐無稽なものを据えることで、自分を守っているんです。横断歩道を踏み外したら三日以内に交通事故、では気味が悪くて楽しくプレイできませんからね。
私の先輩も、本当はそうやって無茶な報復を設定することで笑い話で収めようとしたのかもしれません。
先輩は美しい人でした。中学二年生の少し浮ついた私を、すっかり部室に引き止めて離しませんでした。授業が終わるとすぐ部室に向かいましたし、彼女の制作が終わるまで私もキビキビと何もせず時間を潰し続けました。筆を持つ先輩の真剣な横顔も、私に手を振る先輩の笑顔も、夕陽を反射してきらきらしていたのをよく覚えています。
思い出話が過ぎましたね。すみません。
先輩には友人と呼べる存在がおよそいなかったような気がするのです。ですから先輩は、初めてできた後輩の私に対しても、距離を測りあぐねていました。友人のように接するわけでもなく、厳しい先輩を演じるわけでもなく。今思えば、初めは随分と丁寧で他人行儀でした。
少し打ち解けてからも、先輩は私にどこか遠慮していました。私との関係について悩み抜いた末に、友人のいない先輩らしい突飛な予防線を張ったのです。
これ、分かりますか? 先輩がこのスイッチをケース入りのピンクッションに挿して寄越してから、ずっとこのままなのです。
まるで、昆虫標本みたいでしょう? こういうものはタクタイルスイッチというんです。中に金属のばねが入っていて、本当はこの白い部分を押すとカチカチと小気味のいい音を立てる代物なのです。ここにある赤い色をした丸い穴は、きっと配線して電気を流すと光るのでしょう。
私はこれを先輩に貰ってから、一度も押せていません。当然、電池も繋いでいません。これが私の呪術……おまじないです。
先輩はこのスイッチに自分の命を預けたのです。先輩の命の重さが、今まで私にずっとのしかかっています。「私のことが嫌になったら、このスイッチを押してね」と先輩は言いました。こんな小さな部品で先輩を抱えきれるだなんて、心から信じているわけではありません。
でも、怖いのです。他でもない、先輩自身がそう言ったのですから。
私はこのスイッチを貰ってから、ずっと引き出しの奥にしまっていました。先輩を殺そうだなんて思ったこともありませんでしたから。
しかし、今はもう、押したくて押したくて仕方ないのです。本当はずっと引き出しにしまっておくべきなのでしょう。でも、このスイッチを失うことの方が何倍も恐ろしいのです。
先輩が知らない人と笑って歩いていたらどうしようと、たまに思うのです。先輩だってもう誰かと付き合ったり、結婚したりできるようになっているでしょうから。そういう時は、これを押せば死ぬのだと自分を落ち着かせます。私のものにならないのなら死んでしまえと、本気で思うこともあるのです。
本当に押したりはしませんし、押しても本当に死ぬことはないでしょう。分かっています。おまじないとは、そういうものです。
同じようなスイッチをいくつか買ったりもしました。あのカチカチという音は少しだけ心が落ち着きますが、スイッチを押すだけでは抑えきれないほどに心が騒ぐ時があるのです。そうして、週末になるとこういうバーに来てしまうのです。もしかしたら、先輩がいるのではないかと。
ねぇ、ここ、見てください。あなたと同じ、スイッチのたこができてしまいました。
先輩。私の呪い、解いてくださいますよね?