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3
「んぅ……朝か」
ぴぴぴぴと、不快な音が部屋に響いた。
「ううううう……」
私は呻きながら何度かスマートフォンをいじくりまわすけれど、とうとうそれが原因ではないことを思い出し、煩わしい音を発する銀の目覚まし時計をぱしりと叩く。
「暑い……べとべとする……」
夏の目覚めは、アラームよりも部屋の暑さによってもたらされることが多いけど、昨日はずっと眠りに入る前に考え事をしていたせいで特に寝つきと夢見が悪かったらしい。寝ぼけた身体に汗で張り付いたTシャツがじとりとして嫌な心地がする。
窓を開け、軽く伸びをした。レースのカーテンが優しく揺れてから、湿った室内をよく晴れて乾いた空気が駆け巡っていく。肌にひやりとした心地の良い寒さがまとわりついた。
「今日は文香が、来るんだよね」
あの日、文香との再会から二週間ほどが経っていた。
私の家に絵を描きに来たい、というのは社交辞令だと思っていたけれど、文香は本当に私の家に来たかったらしい。別れてじきに、都合の良い日を尋ねる連絡が来た。彼女も自分が何かしたのだろうかと気にしていて、なかなか連絡する勇気がなかったのだという。
ただすれ違っていただけの彼女と私の時間が、再び動き出した。
でもまだ私には、まだ後ろめたいものがあって。過去の私達の間のこともそうだけど、目下のところそれは、アヤについてのことだ。
二人の関係が変わってしまった今、これまでどおりではいられない。文香に屈託のない笑顔を向けられながら、その裏でアヤを抱きすくめて欲望を晴らしていることを、単なる人形遊びの趣味だなんて言うことはできない。
少なくとも今の私は、文香に対してこの生活を後ろめたく思っている。このままでは、きっと最後には破綻することだろう。
「あと一時間くらいかな……シャワー浴びちゃおっと」
文香にとっては単なる友人に会うためだけの一日かもしれない。でも、私にとってはそれを隠し通すか、さらけ出すかを選ばないといけない大事な一日になるはずだ。
ぴんぽーん。来客を告げるチャイムが何度か鳴って、私は玄関へ向かう。
ドアを開けると、この前とは打って変わって黒っぽいパンツスタイルに身を包む文香が立っていた。肩には大きくて薄いバッグを掛けて、右手にもそれよりは小さい普通のバッグがもう一つ提げられていた。
「こんにちは、紫織。なかなか出てくれないから、部屋を間違えたのかと思ったわ」
「あ、文香。ごめんね、ちょっとシャワー浴びてたの。上がって上がって」
私の頭がまだ少し濡れているのは、ぼーっとした頭で十数分呆けていた私の寝起きの悪さと、その割には遠慮のないシャワーの長さと、それに文香の予想外に早めの到着時間が加わった結果だ。
「散らかってるけど、くつろいでいってね」
「ありがとう。お言葉に甘えて、ゆっくり描かせてもらうわ」
本当はこの部屋も少し掃除をして、向こうのアヤも部屋の隅に移して目隠しにカバーでもかけておこうと思ったんだけど、全くそんな時間はなかった。どちらも人を招くのには致命的でない分、文香を暑い外で待たせるのも悪いし。
だから今は少しだけどきどきしていた。割ってしまった花瓶が先生に見つからないか心配する類のどきどきだ。見つかってから弁解するのも、見つかる前に怪しまれるのも、どちらも避けておきたかった。
「私、ちょっと髪を乾かしてくるから、先に作業していていいからね」
「えぇ、分かったわ。外の景色を見ているわね」
文香を残して洗面所に向かうだけでも少しどきどきが強くなる。彼女に限って、勝手に部屋を覗くことはないと分かっているのに。よく見知った幼馴染を疑っているようで、しかもそれが離れていた時間のせいだと思うと、少しだけ嫌な気持ちになった。
戻ってくると、レースのカーテンがまとめられて部屋が少し明るくなっていた。窓から外からの陽射しが直接フローリングの床に当たっている。文香がベランダに立っているのが見えて、私は窓枠を挟んで向こう側の文香に話しかけた。
彼女はその長髪をポニーテールにまとめ、その尻尾を作業の邪魔にならないように頭の後ろで時折ぴょこぴょこと揺らしている。
「文香、外で描いてるの? 暑くない?」
「陽は差してるけど、風が気持ちいいわ。あなたも来てみたら?」
文香の黒髪を揺らしてから部屋に入ってくる風が部屋を駆けていく。私もベランダに足を踏み出すと、床板が小さくきしっと音を立てた。確かに私の頬を撫でる風はそれなりに涼しいけど、さっきまでドライヤーで暖められていた私まで、文香のように汗一つかかずにいられるほどではない。
大げさに動きながら後ろから文香を覗き込むと、彼女は今は下絵を描いているところらしい。さらさらと鉛筆を走らせる先を見ると、木の板にA3ほどの紙が貼られていて、端はねずみ色のテープで止められている。画板の端はベランダの柵に載せられて安定しているように見えるけど、鉛筆の位置と書き方に応じてたまにくらりと揺れた。
「こういうの、スケッチブックとかに描くんじゃないんだね」
「そうね。用意もなくスケッチブックに描いちゃうと、色塗りの時に紙が伸びて歪んじゃうから。描く前に、水彩紙を水で濡らして板に貼ってから、テープでピンと張るのよ」
水張りっていう作業なの、と鉛筆を走らす文香が少し得意げに見えて、私まで誇らしげな気持ちになった気がする。
「文香、楽しそうだね。私も水彩、やってみたくなってきたかも」
「それは嬉しいわ。本当にやる気になったら、言ってね。いろいろお手伝いするから」
「うん。ほんとに楽しそう」
文香はさらに筆を進める。すらすら。しゅっしゅっ。顔を上げて風景の一点を注視してから、ささっとまた軽やかに鉛筆を動かす。さらさら。鉛筆と紙が擦れる音が心地いい。
普段何気なく窓から目を遣る何の面白みのない景色のはずなのに、それが文香の手で拾い上げられて白い紙に描き起こされていくだけで輝きを感じてしまう。価値がないと思っていたものの価値に気付くというのは、当然嬉しいんだけど気恥ずかしさが付いて回る。
住宅街の中にあるアパートの一室から見える景色はたかが知れているけれど、ちらほらと見える植え込みや家庭菜園の様子を丁寧に描き込んでいたり、夏の青空が広く取られているところを見ると、美しく見える景色の切り取り方を心得ているのだと思った。
と、軽快に進んでいた鉛筆の動きが止まる。後ろを向いた文香は、少し困った顔だ。
「描きに来てる身で言えたことでもないけど、やっぱり見られるのって恥ずかしいわね」
「いいからいいから。もっと見せてよ、文香大先生」
「ふふっ。なぁに、それ。見ているだけじゃ上達しませんよ、紫織さん?」
そう言って、文香はまた作業に戻る。耳に届く鉛筆の音が少し速くなった気がした。
「そろそろ、ちょっと休憩するわね」
ぱたり、と音が立つように鉛筆を画板に置いて、文香が作業の中断を告げる。下絵の描き込みは大体終わったということらしい。陽もすっかり高くなって、まさに暑くなろうというところだ。
直射日光を一身に受けていた室内に戻ると、やはり熱がこもってむわりとした。私はまたカーテンを解放して、するりと窓にかぶせていく。吹き込む風がレースを揺らして床に作る影の模様を変えていった。
立ち止まって床を見つめる私とは対照的に、文香はテーブルの周りを二、三周しながら上を見たり下を見たり、何かを探しているようだ。
「こっちの部屋にはエアコンがないのね。室外機はあったみたいだし、あっちのお部屋にはあるの?」
「えっ? あ、その……」
間仕切り扉を指差す姿を見て、私はどきりとする。好意的に見ればクローゼットの扉とも誤魔化せそうだったけど、ベランダに出た上に、しかも室外機という誤魔化しようもない証拠を抱えた今ではもうどうしようもない。
「ふふっ。私に見せられないほどに散らかっているのかしらね?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
どう言えばいいのだろう、と思いながら私は言いよどむ。ゆらゆらと足を左右に進めながら、何度も視線を行ったり来たりさせた。
「安心して。許可無く人の家を漁る気はないわ。エアコンがなくても涼しいし」
「べ、別に汚いわけじゃないからね? 見せられないってことはないけど、なんか恥ずかしいっていうか」
「どうしたの? 見てほしいのか、見てほしくないのか、分からないわよ」
そう言って、文香はテーブルに着こうとした。私はそれを止めるように声を掛ける。
「……いいよ。開けてみてよ」
何故私がこんなことを口走ってしまったかは分からない。
彼女に隠し事をしている罪悪感のせいか、あるいは、ほのかな期待に縋っていたのかもしれない。最近のアヤを見ていると心に湧き上がってくる、どんな私でも受け入れてくれるだろうという、妄想にも近い淡い期待に。
がらがらと扉が引きずられて開く音を聞きながら、終わった、と心の中で言った。
アヤの部屋は、厚手のカーテンから漏れる光が少し部屋を走っているだけで、涼しくて薄暗い少し不気味な部屋だ。そんな部屋の中で、文香は当然真ん中で存在感を放つラブ・ドールに注目して、それから不思議そうに部屋を見回す。
「あら、エアコンがついてるのね。えっと、これはお人形のお部屋?」
「う、うん。そんなところかな。私、人形遊び好きだから」
上擦った声で文香の背中に話しかける。見られていないのをいいことに、シャツの裾をぎゅっと握りしめても、緊張は少しも解けなかった。狭い部屋で、ばくばく走る心臓の音が文香まで届いてしまいそうだ。
「随分と大きなお人形なのね。まるで、本当の人間みたい」
そうなの、リアルでいいでしょ、と昨晩眠りに入る前に何度かシミュレーションしていた中から、誤魔化すに足る無難なものを選び出していく。
文香がしゃがみこんで、アヤの眼と高さを合わせる。まじまじとした視線は――当然だけど――アヤのそれとは交わらず、まるで彼女が動けないほどの恐怖にでも襲われているかのように見えた。
「なんだか、私みたいな容姿をしてるのね」
「そ、そうかな……?」
部屋に風が流れ込んで、後ろから二人の髪を揺らす。
「もしかして、スケッチにでも使ってるの? 確かに、よく見ていた人間ならイメージが湧きやすいかもしれないわね」
文香がしゃがみこんだままこちらを向いた。彼女の純粋な興味を帯びた視線が、アヤから私に移されたけど、やはり私もその視線に応えることはできなかった。
「……うん、そう、スケッチ。スケッチするのに使ってる。文香が芸術に夢中なのを見て、思わず買っちゃったの」
「ふぅん、そうなの? でも私たち、会ってから二週間くらいしか経ってないけど、そんなに早く届くものかしら? 買ったばかりのものにも見えないし」
言ってすぐ、蛇足だったと思った。
私に向けられる視線に見え隠れする疑念のようなものが、やはり私にも動けないほどの恐怖を与える。嘘で塗り固めて誤魔化そうとしても、最後には全ての真実を明かされるのではないかという、そういう想像が私を駆け巡った。
「その、それはね……ち、違うの」
「まぁ、別に矛盾を突いて困らせたいわけじゃないから、いいんだけど」
文香が立ち上がって、そのままぐるりと部屋を見渡す。視線は私から離れても、未だに突き刺さるようなものが心に残っている。
「でも、なんだかここにいると、高校生の頃に戻ってきたような気分になるわ」
ちくり、ちくり。テレビ、机、ベッド、カーペット。全部が文香の部屋と一緒だ。その通りだ。だってわざわざそうしたから。
「それに、このルームウェア。鏡を見てるみたい」
ちくちくちく。文香が着ていたのと同じ、可愛らしい黄色のルームウェア。
「どうしたの、黙っちゃって?」
部屋をひとしきり眺め終えた文香が、振り返って私を見下ろした。
「な、なんでもないよ。別にそんなの、偶然じゃ――」
「ねぇ、本当にこれ、スケッチのためのスタジオなの?」
私の言葉を遮る文香が、ぐっと顔を近づける。嘘への罪悪感を視線で貫かれているようでくらくらとした。首元からは、シトラスの香水と混じりあったむわりとした濃い匂いがして、それがさらに私の視界を心地よく揺らす。
「違うよ。ごめん、嘘ついた」
「ショック。紫織も嘘をつくのね。じゃあ、何に使っているのかしら?」
私は黙りこむ。昨日はこの悪癖を隠し通すか、さらけ出すか、なんて大層なことを考えてみたけど、そんな決断をしっかりと下すのは私にはまだ無理だった。
「だんまり? じゃあ……例えば、私とのおままごととか?」
直球だった。当然だ。もういくら誤魔化そうとしたところで、証拠が揃いすぎて誰だって分かってしまうだろう。ましてや私を良く知る文香のことだ、かなりの確信と共に導いた答えに違いない。
こくり、と頷くと、文香はそっか、と小さく返した。
「私とのおままごとって、私から言っておいてなんだけど、楽しいの?」
「ね、文香。覚えてるよね? 私はね、あなたに乱暴をしたから、あなたから離れなきゃいけなくなったの」
私は振り返って、壁に向かって話し始めた。文香がどんな表情をして聞いているかなんて、見たくなかった。
「でも……私、あなたのことが大好きで、離れてもあなたを忘れられなくて。その気持ちを、こんな人形にぶつけてるんだよ。バカみたいでしょ?」
あはは、と乾いた笑い声が部屋に響いて、自虐をより一層痛々しくする。私は文香の答えを待たずにさらに続けた。
「だからね、楽しいか楽しくないかって言われたら、寂しいし、全然楽しくないよ。でも私は、これに縋るしかないから」
今、文香はどんな顔でこれを聞いているのかな。そんなの想像も付かないし、例えどんな表情だとしても私の心を苦しめることだろう。だからこの顔を見せない口上は、私だけがすっきりするためのものだ。
「気持ち悪いでしょ? 自分でも分かってるの。今日だってこれ、最初はちゃんと隠し通そうって思ってた。こんなのわざわざ見せられたって、文香を困らせるだけだし」
心が全部あらわになって、丸裸で縛られていく。
「今日はもう、帰ってくれる? 私、もうどんな顔で文香と喋っていいか分かんないよ」
「気持ち悪いだなんて思わないわ。おままごとくらいなら、幼稚園児でもするじゃない」
「それは、そうだけど……」
「だけど? だけど、どうしたの? あなたの様子を見てると、何だかまるで――」
――まるで、気持ち悪いって、言われるのを待ってるみたいだけど。
ばっ、と振り向くと、文香は余裕を帯びた優しい笑顔でそこに立っていた。私の隠したいことは、全部彼女も最初から知っているのだと言わんばかりに。
シオちゃんが、髪が舞い上がるのも気にせずに思い切り振り向いた。
彼女は分かりやすい。嘘だって隠し事だって、全部分かってしまう。初めからこんなに話してくれるとは思わなかったけれど。
「やっとこっちを向いてくれたわね、紫織」
「なにそれ。気持ち悪いだなんて、わざわざ言ってほしいわけないじゃん」
シオちゃんを見るとなんとなく伝わってくる。こうしたい、ああしてほしい。今だってそう、私に手酷く罵られることを期待しているように見えるのだ。
「でも、紫織が許可さえしなければ、私はここを開けることも、このお人形の様子を知ることもなかったわ。それなのに、どうして開けてもいいなんて言ったのかしら?」
彼女は隠し事を全部教えてくれたのだから、私もしっかりと教えてあげることにした。
「本当は、私にお人形のことを知って欲しかったんじゃない? それを見た私に、酷いことを言われたかったんじゃない?」
「そんなわけ、ないじゃん。隠し事してる罪悪感を消そうとしただけだよ」
「ふぅん。そう、罪悪感ね。どちらにせよ、気持ち悪いけど」
気持ち悪い、ともう一度強調して言うと、ぴくり、と彼女の身体が揺れた。その後に驚いた素振りを見せる辺り、シオちゃん自身も気付いていない類の快感だったのだろう。
自分の心の黒くて恥ずかしい部分を私にさらけ出したせいで、普段とは違う気分を味わっているのかもしれない。
「じゃあ、その罪悪感ついでに、もう少しお人形を見せてもらっても良いかしら?」
「……勝手にすれば。もう、文香には降参する」
「もう。勝手に、だなんて言ったら、あなたのパートナーが悲しんじゃうわ」
彼女から、おどおどとした弱々しい接し方が徐々に消えているのを見て私は安心する。隠し事が明らかにされて自棄になったせいか、シオちゃんのいう私への罪悪感や後ろめたさが表に出てこなくなったらしい。
失礼します、と軽く一礼して敷居をまたぐ。部屋の中が凍りついているように感じるのは、ずっと冷房が入っているせいもあるけれど、やはり部屋のど真ん中に鎮座する大きなお人形が放つ非人間らしさのせいだろう。
そのお人形の前にはガラステーブルが置かれているので、私は横にしゃがんでから頭部の辺りを覗き込む。
「えぇと、なんと呼べばいいのかしら? お名前はあるの?」
「……アヤ」
私は思わず振り向いた。耳を疑ったのは、それは私を指す名のはずだからだ。
「もう一度、言ってくれる?」
「だから、私はこのお人形さんをアヤって呼んでるの。何回も訊かないで」
さっきショックだとわざわざ口に出した時とは違う、本当の衝撃が私の中を走っていった。あの頃私に向けられていたはずのあだ名が、いつの間にか目の前のお人形に奪われていたと思うと、何だか悔しい。
「そっか。だから私のことをアヤって呼んでくれなかったのね。操を立てるという意味もこもってるのかしら」
「そんなんじゃないよ。ただ、ここにいる時くらいあの頃を思い出したかっただけ」
あの頃、というのはシオちゃんが私を求めたあの日よりも前のことだろう。あの日を境にシオちゃんは部室に来てくれなくなったから。
私がまた振り返ってお人形を観察しようとしたところで、ざあ、と寂しげな声を掻き消すように、急に外から雨音が聞こえ出した。
「雨が降ってるみたい。夏の夕方は不安定だものね」
「……うん。窓、閉めてくるね」
シオちゃんの足音を聞きながら、私は目の前の芸術品を見つめることにした。
「なるほど、よくできてるのね」
小さな鼻に、ぷるんと光る桜色の唇。くるりと長い睫毛を携えた様子を見つめていると、急に眼をしばたたかせたように見えた。それが急に雨で暗くなった部屋に灯された電灯の光のせいだと分かったあたりで、はっと我に返る。
すらりと伸びた手脚は、透き通るような肌で覆われていて、指先や関節の一つ一つまで美しい。身体の大部分はもこもことした黄色い水玉の布地――私がシオちゃんが家に来る度に着ていたルームウェアによく似ている――に覆われていて全ては分からないが、これが誰もが求める理想的なボディというものなのだろう。
そこには、永遠の静けさと共に一連の完成した美しさがある。
しかしそれは、人間が本来持っている自然さをすっぱりと捨ててしまった、実に不自然な美貌だ。美しく見えるために限りなく洗練されたその体躯は、一見すると唯一無二の芸術品と呼べるように思えても、実は大量生産に向いた工業製品になるためにある程度の最適化を施してあるように見える。良く言えば作りやすい。悪く言えば、オリジナリティの無い部分が透けて見えてしまう。
もしかしたら人間だって工業製品みたいなものなのかもしれないけれど。
雨粒が叩きつけられる音が幾分柔らかくなり、シオちゃんが窓を閉め終えたとわかる。外から流れ込んでいた自然な空気が断ち切られ、優しさのない冷ややかな人工の風がお人形の髪を揺らす。それがこの部屋にはよく似合っていた。
「どんなふうに扱えばいいの? 触っても大丈夫?」
振り向いてそう訊くと、シオちゃんはきょとんとした顔。私がこんなに興味を示すのが意外だったとみえる。悔しいけれど私に向けられていたニックネームを受け継いでいるんだから、観察しておいて損はない。
「普通の人に触るよりも、ちょっとだけ優しくしてあげて。怪我なんかしちゃっても自然には治らないから。当たり前だけど」
注意を告げるシオちゃんは、少し照れていたようだった。どうしてか、その様子を見ているとあまり良い気持ちがしない。
「分かったわ。ではまた、失礼しますね、アヤさん……」
私は指でお人形の頬を突付くようにして触れる。ぷにぷと、一見柔らかい感触が指から伝わってくるけれど、この下には生物らしさの欠片もない整然とした金属か何かの骨格があるのだろう。少しひんやりとする無機質な素材の上に形作られた脆い理想のような、不用心に触れたら全てが壊れてしまいそうな儚げなものを感じさせる。
右手で頬を包み込むようにすると、その冷たさがしかと伝わってくるようになる。この冷たさが彼女を非生物たらしめて、永遠を担保しているように思えてならない。
もし今私が気が狂ったようにして、このシリコンの皮膚をすぱすぱと切りつけてしまったら、彼女たちの世界は壊れてしまうのだろうか。そうするだけで彼女の持つだろう永遠が終わりを迎えるのだとしたら、アヤの名は私に戻ってくるのかもしれない。
「ね、ねぇ。そろそろ、やめてもいいんじゃない? アヤも恥ずかしがってるし」
「あら、恥ずかしいのは紫織でしょう? あなたが大好きな私が二人もいて、触れ合ってるんですもの。確かに何もせずには見ていられなくなっちゃうかもね」
くすくすと、あなたの痴態を見て笑っているのよと言うような声を浴びせた。
シオちゃんはそっぽを向いてしまって、顔は見えないけれど、みるみる赤くなっているだろう様子が良く分かる。
「うぅ……い、言わないでっ!いいから、早くアヤから離れてよ!」
「分かったわ。そろそろ休憩も終わりにしないとね」
私はお人形に一礼して、立ち上がって、振り返って……と、あれを忘れていた。
「えっと、そのノートは?」
木製の丸みを帯びた子供用らしい学習机――これもおそらくは私が使っていたものを意識したのだろう――に、ありふれたA4三十ページの学習ノートが置かれている。表紙には黒いマジックペンで「16」とだけ記されており、内容は推察できない。おそらく大学で使っているノートをここに置くことはないだろうから、初めに部屋を見回した時から何に使われているのか気になっていた。お人形の取り扱い備忘録か何かだろうか。
「あっ!それは、ダメ!」
慌ててノートを取ろうとするシオちゃんをわざわざ素早く追いかけることもせず、私はゆっくりと机に近づいた。
「そんなに焦ってどうしたの? まるで、壮大な犯行計画でも書いてあるみたい」
十六番目のノートは机を背にした彼女の胸に抱えられている。その様子が一冊のノートだけでなく机ごと守っているようにも見えて、引き出しの中にバックナンバーが保管されているのだろうと推測させた。
「これは黒歴史みたいなものだから、絶対誰にも見せられないよ。だって、こんなのもし文香に見られたら、また……」
「また、気持ち悪いって言われちゃう?」
私がそう訊くと、彼女は恥ずかしげに小さく頷いた。
「見ちゃダメなの? それとも、見て欲しいの?」
じっと、瞳の奥を見つめるようにする。シオちゃんはこういう見透かされているような視線に弱い。
「あ……う……み、見てもいい、けど……また、気持ち悪いって言われちゃう……」
シオちゃんは手に持ったノートを差し出しながら、もう片方の腕で目を隠す。その証拠品をぱらぱらとめくると、日付と一緒にシオちゃんとお人形の会話録みたいなものが書いてあった。日記だろうか。
この日記では、私とシオちゃんが付き合っているという設定らしい。厳密にはこのお人形となのだけど、それを通して私を見ているはずだから、私と言ってもいいだろう。もっとも、偶像を通して見つめる私が本当の私とは限らないのだけど。
シオちゃんが付き合っている『私』は、実に彼女と仲睦まじげだった。手を繋ぐ、見つめ合う、キスをする。そんなことは日常茶飯事で、時には同じ布団で眠ることもある。朝は必ず『私』が早く起きて、目覚めるまでシオちゃんのことを見つめているのだという。
「このアヤちゃんは、夜になると動いたりお喋りしてくれたりするの?」
「ううん、それはただの妄想。アヤと一緒にいる時の妄想を書き留めたノートなの。ここにいると、いろいろ考えちゃうから。やっぱり、気持ち悪い……?」
「えぇ、そうね。気持ち悪いわ。紫織がこんな変態だったとは思わなかった」
「へ、変態?」
シオちゃんが下を向いて手をもじもじさせた。新しい罵り文句も気に入ったらしい。
「親友を勝手に自慰のための妄想に使って、それをわざわざノートに書き留めているのでしょう? 私には、節操のない変態にしか見えないけど」
変態と言われた時の歪んだ喜びも忘れて、親友か、と今度は少し照れたようだった。結局、私には何を言われても嬉しいのだろう。
「でも、紫織はこれじゃ、満足できないんじゃない?」
そう確信して、私は核心に迫ることにした。
「……え? た、確かに、そうだけど」
人形とのお遊びじゃ、満足できない。そんなの最初に言ったことだ。どうして文香が急にそんなことを蒸し返したのか分からなかった。
「だって、お人形は血を出さないもの。血だけじゃないわ。このお人形が、一滴だってあなたのために体液を出してくれたことはある?」
文香が一歩前に出て、ずいと私を覗き込む。私は後ろに下がろうとしたけれど、机があるのを忘れていたせいで不格好に上半身を少しのけ反らせるくらいしかできなかった。
「そ、そんなのできるわけないじゃん。人形なんだもん」
「そうよね。だから、紫織は絶対に満足できないの。違う?」
「えっ? 人形に体液が通ってないと、私が満足できないってどういう……」
ここまで口に出したところで私は、はっ、として、彼女が何を言わんとしているのかを理解してしまう。私が口をぱくぱくとさせていると、文香は私からぴょこりと跳ねるように離れた。
文香が後ろで手を組んで腰をかがめてこちらを見る。じっと見られていると、まるで私が見世物であるかのように思えてきた。
「関係あるでしょう? 私の血を舐めて、挙句の果てに私を襲っておいて。その相手の前でとぼけようっていうの?」
「ね、ねぇ文香。この話、やめない?」
そう言いながら倒した身体を再び起こすと、文香はすかさずすれ違うようにして私の耳元に口を近づける。くすっ、という笑い声が耳に当たって、身体の芯からくすぐったい感じが上ってくるようでぞくぞくした。
「大好きな人の体液に興奮を覚えるあなたが、体液のひと滴も出ないこんなお人形で満足できるっていうの?」
こうやってはっきり訊かないと分からないのかしら、という言葉に、私は目の前が真っ白になる。血の通った文香と血の通わないアヤが触れ合っている様子が思い出されて、その想像の中で文香だけがきらめく輝きを放っているように見えた。
ふっと、文香が私の耳に息を吹きかける。今度はわざと。当たるか当たらないかのくすぐったさがない代わりに、それはしっかりと私に直撃して、きらきらとした想像をかき消した。私はすっかり身体の力が抜けて、とすんと尻餅をついてしまう。
「ひゃうっ!な、何するの……?」
「どうなの? あなたは、このお人形で満足?」
私は引き出しに寄りかかって座り込んだまま、ふるふると首を振ってその質問を否定する。文香は私の視線に合わせてしゃがみこんで、言葉を続けた。
「そうね、不満よね。じゃあ、私ならどう?」
「文香なら、って?」
少しだけ高い文香の視線に応えるようにして、ちらりと彼女を見上げる。
「例えば、今キスをして、重力に任せてあなたと体液を交換するの。あなたが欲しかった私を、好きなだけ貪りたくはないかしら?」
「キス、してくれるの……?」
ごくり。唾を飲む音が聞こえてしまわないだろうか。
「いいわよ、あなたがしたいのなら。紫織からしたい? それとも、私がする?」
「……文香がして。文香にしてほしい」
「えぇ。分かったわ」
にこりとした文香を見ると顔が熱くなって、見上げた視線が定まらなくなる。ほぅと吐く息が熱い。どんな表情で彼女のキスを待てばいいのか分からなくなって、私は下を向いてしまう。
文香とのキス。彼女の初めては、私が強引に奪ってしまった。柔らかい唇と不規則な浅い吐息を器にして、とろとろとした唾液を夢中になっていくらでも掬い取った。あんな自分勝手な幸せは、後にも先にももうないだろう。思い出すだけで息が荒くなって、顔が熱くなって、何も考えられなくなる。
紫織、と呼びかけられてまた文香を見上げると、彼女の人差し指が私の唇に、一瞬だけついと当てられた。
「私からしてほしいのでしょう? 顔を上げて。目を閉じなきゃキスできないわ」
目を閉じると、すぐに文香の唇が私に触れた。私の首に手を回して、少しだけ高い位置から、ちゅ、として。何度か唇が触れ合って、また、ちゅ、と音を立てる。
何度かついばむようなキスをしてから、ちろと文香が私の唇を舐めた。驚いて思わず目を開けると、文香とばちっと目が合う。悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女は、ダメよ、と声に出さずに言ってから、じっと私に熱い視線を送ってくる。初めはその視線から離れられずにいたけれど、とうとう恥ずかしくなって私は目を閉じた。
すると、すぐにまた彼女の攻めが始まる。今度はもう少し激しいキスだ。たらたらと文香のジュースが私の舌へと渡される。時折漏れる互いの吐息がどんどん激しくなって、私も文香も昂ぶっているのを肌で感じられる。
彼女の体液は舌からじわじわ広がって私の身体に入っていって、どろどろになって私と混じり合っていくのだ。文香の言うとおり、私は大好きな文香の体液に興奮を覚えるいやらしい人間だから、そんな想像は私の身体にこの上ない快感を刻んでいった。
彼女とのファースト・キスを思い出して、それよりもずっと幸せな気持ちが広がっていくのを意識する。お互いが同意してするキスは、触れ合う度に見えない気持ちが交換されていくような気がしてもっと気持ちいい。私は文香から伝わる優しさに安心して抱かれていった。
「……っ……ふぁ……」
つつ、と銀色の糸が引かれてすぐにぷつりと消え去った。
「私からするのは初めてね、紫織」
文香も、乱暴に私が奪いとった初めてをきちんと覚えていた。普段は凛々しくて、少し触れるのにも心高鳴る彼女が、あの時だけは私の下でされるがままになっていたのだ。あの光景が文香の中にも残っていると思うと、胸がきゅうとして、でも不思議な嬉しさを感じる。
当時の光景がリアルに思い出されて、文香のいなくなった唇が急に寂しくなった。
「も、もうおしまい?」
「物足りないの? 大丈夫よ、キスなんていつでもできるから」
「いつでも、してくれるの? じゃ、じゃあ今、もう一回して」
「なぁに、興奮してきちゃったの? 最初にお人形を見られた時は泣きそうな声で、帰ってほしい、って言ってたのに」
耳元で、気持ち悪いわね、と囁かれてまた身体の力が抜ける。
「でもね、今はダメ。作業が終わってないの。今日はもともと絵を描きに来たのよ?」
「そ、そんな……」
「私が一段落するまで、一人で我慢できる?」
ふるふる。私はまた首を振る。それを見た彼女は、紫織はわがままなのね、とくすくす笑った。私の浅ましさを嘲るように。
「じゃあ、お人形さんで発散したい? それとも、私とそういうこと……したい?」
「文香。文香ともっとキスがしたいの」
私は力の抜けた身体を無理矢理起こして、文香に抱きついた。不意に私に体重を掛けられて、文香は私ごとバランスを崩して倒れてしまう。ちょうど押し倒したような形になって、まさに当時のままの構図である。あの時の私は、このまま強引にキスをしたのだ。どきどきとして、文香の唇から目が離せない。
「……っ!ふ、文香っ!」
「ふふっ、紫織って本当に気持ち悪いのね。何度言ってもダメよ、まだ我慢するの」
今私が有無を言わさずキスすれば、そんな命令に意味はなくなってしまう。そうしてしまいたい。でも、そんなことはしてこないと文香は分かっている。
その笑顔は、私のことを弄んで楽しんでいるみたいだった。
「私をずっと好きでいてくれたの? 私を襲ったあの時か、その前から」
「そうだよ。ずっと、好き。いつからかなんて、分かんないけど」
文香が水彩の続きをしながら、私に話しかける。私は体育座りで作業の様子を後ろからぼーっと眺めていた。さっきのキスは、その刺激をすぐに受け入れるには衝撃的すぎて、今になってやっと私の身体にじわじわといやらしさを植え付けていっていた。
早めの夕立だと思っていた雨は案外長引いてしまって、夏には似合わない灰色の空が辺りをすっかり暗くしている。
正直早く一人にしてほしいけど、本当は帰ってほしくなんてない。帰ってほしくないけど、文香が振り向けばすぐに見られてしまうような状況で一人で自分を慰めるなんて勇気もない。ぐるぐるとした欲望が時々私の身体を震わせた。
「じゃあ、付き合ってほしいと言ってくれれば良かったのに」
「そんなの、無理だよ。だって友達だもん」
「お友達だと、恋人になれないの?」
「女の子同士で付き合うだなんて、真面目な文香が許すわけないよ。私だって、文香がこんなに好きだなんて……最初は戸惑ってたし」
かちゃ、と筆を置く音がして、文香が振り向いた。正座のままでこちらを見つめる不満そうな顔に、ばちっと目が合う。
「私にも、人相応に怠惰で不真面目なところくらいあるわ。紫織は私を完璧だと思いすぎなんじゃないかしら」
彼女が真面目だから、友達だからなんてのは、私が勇気を出せなかった言い訳だ。私は膝に顔を埋めてさらに言い訳を加える。
「ずっと長いこと友達やってきて、それを壊したくなかったの」
「友達だからダメって言うのなら、いっそのこと私と付き合ってみない? お人形を使うよりは、満たされると思うけど?」
前方から聞こえる声に、私は抱え込む腕の力が強くなるばかりで、顔を上げられない。本当は願ったり叶ったりの提案だけど、手放しで喜ぶ気にもなれなかった。
「紫織?」
「今付き合うって言ったら……キスしたいからとか、えっちしたいからとか、そんな理由になっちゃう。だから、やだ」
じくじくと疼く赤い傷口は、確かに文香を性的に求めているけれど、私の心はまだその欲望を許せずにいた。
「あら、私とセックスしたかったの?」
「例えばの話だよ。キスは……うん、したいけど」
「じゃあ、セックスフレンドでもいいわ。キスフレンドって言えばいいのかしら?」
私は思わず顔を上げる。文香の頬に朱がさして彼女までもが発情して見えてしまうのは、きっと私の欲情の反映なのだと思う。今日の文香は私の知ってる彼女じゃないみたいだ。少なくとも、私には直視できないようないやらしさを孕んでいる。
「女の子同士でせ、セフレだなんて……て言うか、セフレ自体良くないよ」
「良くない、っていうのは、背徳的ってことかしら。私、背徳的なのも好きよ」
一度離れた膝の間に戻る気にもなれず、逸らした視線は文香の肩の向こうへと投げられた。ぼんやりと、今朝軽く片付けられたままのベッドが目に入る。
「文香。もしかして、大学でそういうことしてるの?」
「そういうことって、どういうこと?」
「身体だけの関係っていうの、良くないと思う。文香は綺麗だし、身体目当てで寄ってくる人もいっぱいいるとは思うけど、そんな、自分の安売りみたいな――」
「いやだわ、勘違いしないで? こんなこと言うのは、あなただけよ」
文香が私の言葉を遮る。それから彼女は正座を崩し、這うようにして私に近づいた。私はちら、と文香の顔を一瞥してからまた自分の寝床に視線を落ち着かせる。
「それに、私達はずっと幼馴染として心を通いあわせてきたじゃない。今更身体だけの関係だなんて、そんなの無理に決まってるわよ」
四つん這いになったままの文香が下から覗きこむようにして顔を近づけるから、嫌でも目を合わせることになってしまう。さっきよりも近くて鮮明になった文香の顔は、今度は確かにその紅潮を私に意識させた。
「じゃあなんで、セックスフレンドになろう、だなんて言うの?」
「恋人よりは、あなたが気軽に受け入れてくれるんじゃないかと思って」
文香が体育座りしたままの私の首に手を回した。上半身でのしかかるようにしてさらに顔を近づけて、彼女は耳元で囁く。
「私、これでも紫織を誘惑してるつもりなのだけれど、気付いているかしら?」
膝を抱えた腕の辺りにむにゅり、と胸の感触が伝わってきた。暖かな柔らかさが文香がそこにいる実感を確かにする。ふわりとシャンプーの香りがした。
「わ、分かんない。知らないよ」
「でも、息が荒いわよ?」
「それは、身体が当たってて……なんかくすぐったいから」
文香はくすくす、と笑ってから、身体ってこれのことかしら、と言いながら回した腕の力を強めて、さらにむにむにと身体を押し付ける。
「ごめんね。こんなやり方しちゃって」
中途半端なキスで寸止めされた挙句に、目の前で餌をぶら下げられてるみたいだ。じくじくが、さらにじわじわと広がっていく。
「私はね、紫織に素直になってほしいの。して欲しいことをして欲しいって言ってもらって、何でも叶えてあげたいの」
顔を耳元から離した文香が、今度は私の目を見て話しだす。
「な、何でも……?」
「そうよ。身体でも、心でも、命でも。差し出す覚悟はできてるの。親友のためになりたいっていうのは、そんなに不道徳で不健全なことかしら?」
親友のためになりたいという言葉だけは、不道徳でも不健全でもないように聞こえるけれど、その言葉を放つ文香は目を離せないほどのいやらしさを見せつけている。
「でも私、人形に興奮しちゃうような、気持ち悪い人間だよ? 文香だって、気持ち悪いって言ったじゃない」
「気持ち悪いだなんて思ってないわ。ただ、あなたがそう言ってほしそうにしてたから」
違うかしら、とさらりと髪を揺らす文香から、また心地の良い香りが届く。
「……ちょっと、どきどきは、したけど」
「あなたに不快な感情を抱くことはないから、もっと頼ってくれていいのよ。昔のことだとか、自分に言い訳なんかしないで」
「頼る?」
「えぇ。例えば……キスしてほしかったら、目を閉じるとか」
「……ん」
そう言われて、私はゆっくり目を閉じる。
文香がそれに応えて、軽く一回だけ唇同士を触れさせた。そんな弱い刺激でも、一つ一つの吐息が熱くなってくるのが分かる。それが文香に届いてしまわないか気になって、余計に息が荒くなってしまう。
目を開けると優しく笑う文香がいて、ね、と小さく同意を促してきた。私は恥ずかしくなって、ぷいとそっぽを向く。
「文香だって、したいことあるでしょ? 私にだって、頼ってほしいよ」
「そうね。じゃあ、早速だけど……お願い、いい?」
私は、お願い、と訊き返して、目をそらしたまま続きを待った。
「今日は傘も持ってきていなくて、それに、あまり絵も濡らしたくないの。だから、泊めてくれないかしら?」
雨はまだ降り続いている。湿度が高くなって乾きにくいのもそうだけど、この雨の中で持って帰って染みるのは避けたいというのももっともだ。でも。
「絵を口実にするの、ずるい」
「あら、気付いちゃった?」
傘を借りて絵は置いて帰ったほうが迷惑にはならないことなんて当然誰にでも分かる。それなのにわざわざ面倒な提案をしてくるのは、さっきそうしていたように、私が気軽に受け入れられるための優しさなのだろう。
「気付いても、気付かないふりをして騙されてくれると思ったのだけど」
「ちゃんと言ってくれなきゃ、やだ」
私は、文香の目を見ないまま口を尖らせる。
「確かに、それもそうね」
文香はそうと言ってから、また耳に口を寄せた。次に来るだろう言葉への期待で、頬や耳に当たる髪のくすぐったさをいつもより鋭敏に感じてしまう。
あのね、と小さく囁いて、文香は言葉を続ける。
「紫織が好きなこと、もっといっぱいしてあげたいの。だから、泊めて?」