/* この作品はしあわせガイドラインに収録されています。 */
1
世は空前の幸せブームである。
国民は幸せで豊かな生活を送るべきだとされ、その実現を最優先とする政策が続いた。その目標から外れた生き方は非道徳的なものとしてしばしば批判され、国だけでなく周囲からも白い目を向けられてしまう。何が幸せで、どうすると豊かなのかを国が決定する時代に入ったのである。
その結果作られたのが「しあわせガイドライン」だ。
しあわせガイドラインには、幸せとはどういうものか、幸せはどうやれば手に入れられるのかが書いてある。誰かに、国に都合が良いように。出産を奨励して国力を増すためだとか、AIが暴走した結果生まれた政策だとか、国民の幸せエネルギーを兵器に転用する研究が進んでいるのだという陰謀論じみた説さえもまことしやかに噂されるようになっていた。
多様性のためと称して片手で数えられるくらいの似たようなモデルケースが載っていて、しかもその全部が男女の仲睦まじい恋愛を含んでいる。恋愛や結婚、出産、労働は幸せの代表例とされた。
最近になって、男性同士や女性同士のカップルもモデルケースとして加えようという議論が始まったらしい。ただし、同性同士での性交渉による妊娠や出産が可能になってから巻き起こった議論であることを鑑みれば、単に男女カップルの真似事ができるようになった新入りについての取り決めでしかないのは明らかだ。多様性の尊重に基づく進歩というわけではなかった。
本当はどこかに一つの「普通」があって、そこに瑣末なノイズが乗っているだけなのだ。
みんなが誰でもない何かに変わるのを強いられている。そういう不自然で歪な変化を、みんなが考えなしに受け入れている。
「――ユキさん。私と、付き合ってください」
校舎裏に呼び出された私は、その場所にふさわしく青春らしい告白を受けていた。ただ、目の前でその台詞を言っているのは、知らない生徒で。しかも、女子だった。
「あなた、私のことを知っているの?」
まず気になったのはそこだ。
目の前で私に交際を迫っているのは、夏服のセーラー服を身に纏ったごく普通の可愛らしい女子である。胸や腰のラインが人より魅力的に膨らんでいるわけでもないけれど、男ということはないだろう。
第一声で互いの性別を確認しようかとも思ったけど、冗談にしかならないのでやめた。
「うん、有名だよ。私の中では」
「真面目に答えてほしいわね」
「あはは。ごめんごめん」
彼女の旧知の友人相手なら、そのにへらとした笑顔で許してもらえるのだろうけど、初対面の私はあまり良い気分にはならなかった。
「恋人がいない謎の女とか、実はレズだとか、いろいろと噂されてるかな。たぶん」
「そう。話題になっているのは嬉しいけど、私はあなたのことを知らないの」
私がそう言うと、彼女は自分自身についての情報をすらすらと語った。名前をサキというらしい。
「それで、サキさん。あなたは、私がレズビアンだって噂を聞いてからかいにでも来たの?」
「うーん、ちょっと違うかな」
「じゃあ、何? 私、誰かと付き合う気はないわ」
「そうだろうねぇ」
「それに私は、レズじゃないし」
「うん、たぶんそうだと思ってたよ」
どちらともつかない返事と、無遠慮な視線が私をいらいらさせる。珍しい動物でも見るみたいにして、一挙手一投足まで漏らさず観察されているような気分だ。
私としては、同性愛者はおろか謎の女さえも自負していたつもりはないので、サキに観察される筋合いなんてないのだけれど。
「じゃあ、もういいじゃない。私じゃなくても、もっとあなたに似合う良い男の子がいると思うわ」
「女同士で付き合うのは、良くないことかな。私、ちゃんとユキさんが好きだよ?」
「そういうの、あんまり興味ないの」
私がそう告げるのを聞くや否や、彼女はくくくっ、と声を抑えて笑っていたみたいだけど、結局我慢できなかったらしく甲高い笑い声を上げる。
「あははっ。やっぱり、そうだよね」
なんなんだ、この女は。さっきから私を馬鹿にしてばかりいる。別れの挨拶すらする気にならず、私は踵を返してその場を去ろうとした。
「ごめんね。だって、キミが――」
と、後ろからサキが私を呼び止める。思わず立ち止まってしまったけれど、彼女がそんな私を見てにやにやしているんじゃないかと思うと、また少し悔しくなる。
「だって、キミが誰とも付き合わないのは、反しあわせガイドライン活動なんだよね?」
反しあわせガイドライン活動、という言葉に私の耳が否が応にも反応してしまう。そんな言葉今まで聞いたこともなかったけど、どういう意味かはすぐに分かった。
私が振り返ってサキに正対すると、彼女は想像していたよりは真面目な表情だ。でも今は、そんなことどうでもよかった。
「あなた、何者? しあわせガイドラインが嫌いなの?」
「うん。キミとは少し、違うかもしれないけど」
「試すようなことをして、ごめんね。でも、私はユキさんが好き。からかってなんかないよ」
それから、謎の女子生徒はおよそこんなことを告げた。
私がしあわせガイドラインに真っ向から反抗して絶対に受け入れまいとする姿勢は、とても気高くて理想的だと思う。でも、一介の高校三年生が国のやり方に反抗したところで、生徒指導すら説得できずに疲弊するだけだ。
そうするくらいなら、もっと上手にしあわせガイドラインを受け流してみたらどうだろう。とりあえず、高校生活の間だけでも彼女と付き合って、周囲に恋愛をしているポーズを示してみるのはどうか。
「こんな感じで、お互いにお互いを利用してみない?」
まぁ、聞いてみると悪い提案ではない。
「確かに、私にはいい話かもしれないわ。でも、あなたのメリットは?」
「私は好きなキミと一緒にいられるし、キミはしあわせガイドラインから逃げられる」
そう言って、サキは良いこと尽くめだよと言うように薄い胸を張った。こんなに「好き」とはっきり言われたこともないので、私は何と答えるべきか分からない。
私が無言のままでいると、それにさ、と小声で付け足した。ここだけの話というように、わざとらしく口に手を添えて。
「そろそろ、生徒指導もうるさくなってるんじゃない?」
「あなた、口説き上手なのね」
「いろいろ、準備してきてますから」
サキが自然なウィンクをしてみせる。
彼女は準備、と言った。そこまでして私と付き合いたいのだろうか。なぜ? 恋愛? 親愛? 分からなかった。
「でも――」
私の言葉に、サキが耳聡くぴくっと反応する。何だかそれが面白くて、私もわざとらしく手振りを付けてわざとらしくゆっくりと言葉を続けた。
「でも、私があなたを選ぶ理由はないわ。付き合うふりをするだけなら、あなたじゃなくたっていいもの」
それこそ、わざわざ女子同士で付き合わなくたって、普通に男女のカップルを隠れ蓑にすればいいだろう。
「うーん、確かに。それはもっともだね」
「でしょう?」
サキは腕を組んで一転、思案顔になった。やっと言い負かせたかなとも思ったけど。
「その気になった男子に襲われちゃったとして、キミに撃退できるような筋力があるとは思えないけどね」
くすっ、と言って私の顔を覗き込むサキの準備の方が、一枚上手だった。
ガイドラインで推奨されているモデルケースみたいな幸せを掴み取りたいと思ったことはない。中学校の裁縫セットみたいに、限られた選択肢から最も近いものを無理に選ばなくたって、もっと自分らしい幸せがあるはずだ。
クラスの男子と付き合ったりデートすること自体が嫌なわけではない。ガイドラインがなかったら、私だってもっと「普通」に甘酸っぱい青春を送っていたかもしれないし。恋愛や結婚が気持ち悪いと思ったことはないけれど、用意された選択肢から誰かと同じ人生を選び取るのを強いられるのがひどく怖かった。
あの子はどうなのだろう? しあわせガイドラインがなかったら、私を好きになっていたのかな。少なくとも、私にこんな取引じみた告白はしなかっただろう。もっと普通の出会いをして、今頃は友達として仲良く笑っていたかもしれない。
「いいわ、付き合っても」
結局私は、彼女の提案を受け入れることにした。
サキと「恋人」になって、残り少ない高校生活を穏やかに過ごす。それが当面の契約だ。彼女はガイドラインに疑念を持っている仲間みたいだし、きちんとやってくれるだろう。彼女が言うには、私がサキに襲われても簡単に撃退できるみたいだし。
「ありがとう、ユキ。好きだよ」
少し心配なのは、彼女が私を「好き」だということだ。これが私の気を引くための嘘だったら何も問題ないのだけれど、そんなそぶりを見せるわけでもない。もし本当に私が好きなら、こんなお付き合いを続けることで心を壊してしまったりはしないだろうか。
誰かの「好き」に縛られるのは合理的じゃない、と思った。でも、誰かが隣にいることで残り少ない学生生活が穏やかに過ごせるなら、私は案外幸せ者なのかもしれない。
「えぇ。私も、あなたのことを好きに――」
「サキ。私はサキだよ。恋人同士は、あなたとかお前じゃなくて、ちゃんと名前で呼び合うの」
私の言葉を遮って、しあわせガイドラインに書いてあるでしょ、と言いながら取り出すのはあの忌々しい小冊子である。けらけらと笑う様子を見ていると、しあわせガイドラインを使っておどけているだけらしい。
「馬鹿ね。しあわせガイドラインから逃げようっていうのに、参考にしちゃうの?」
「ふふっ、そうでした。ごめんごめん」
彼女は一頻り笑ってから、しあわせガイドラインをまたポケットにしまった。それから一転、少し真剣な表情になって私を見つめる。
「でも、やっぱり名前で呼んでほしいな。ガイドラインなんて関係ない。私が名前で呼ばれたいんだもん」
顔を寄せてきたサキの長いまつげが見えて、少しだけどきどきした。こうやって、誰かの顔を近くで見たことがあんまりなかったから。
「分かったわ、サキ」
「うん、ありがとう。ユキ」
「ねぇ。サキはなんで、私が好きなの?」
「綺麗な顔、してるから?」
サキは少し考えてから、あっけらかんとしてそう言った。
「でもでも、他のところもちゃんと好きだよ? ずっとユキのこと見てたし」
「ふふっ。面白いことを言うのね」
「顔が好きでも、身体が好きでも、心が好きなのも全部同じだよ。そういうのに、優劣ってあるのかな?」
互いの心と心が惹かれ合った男女が付き合って、結婚まで互いに純潔を守るのが当たり前で、それが一番幸せで……そういうしあわせガイドラインを、彼女は全く気に掛けずにいる。
私はガイドラインがなければこうやって抵抗することもなかったけど、サキはガイドラインなんて気にせずに、ずっとそのまま生きてきたのだろう。
そういう違いがすごく気に入っていた。私の知らない幸せがそこにある気がした。
「サキ。じゃあ、明日からお昼は一緒に食べましょう」
それも、しあわせガイドラインにあるんでしょ?
私がそう言うと、彼女は今日一番の笑顔になった。なかなか可愛い。
3
私の部屋に、レースカーテン越しの夏の日差しが降り注ぐ。精緻な影が絨毯に散らされて、つまらない光の波がゆらゆら揺れている。その動きは出来の悪い夢みたいで、章の切れ間でふと目を遣ると、シネマグラフじみた静けさと退屈さが私の脳みそをじわじわと覆っていく感覚がした。
私の右隣には、ベッドにもたれて脚を伸ばす「恋人」のサキがいて、買ってきた新刊のコミックスを読んでは潜めた笑い声を上げていた。
外の猛暑の中では元気に啼く鳥も無い。元より車通りが少ないせいもあり、エアコンも付けていない室内には時折ページを繰る音……とサキのくすくす言う声だけが小さく響いている。
「ユキ。この部屋、ちょっと暑くない?」
サキがそのまどろみを破るようにして、私に声をかけた。
時折彼女が身体を揺らすと私まで視界がぐらつくくらいにぴったりくっつき、それでいて暑いという。揺れた髪の先が私の肩に当たるのが鬱陶しい。
「そんなに暑いのなら、離れればいいじゃない」
「くっついていなくていいの? 『恋人』なのに」
恋人、と強調するように言ってからサキはいたずらっぽく笑った。私はベッドに本を置いて、彼女に向き直る。
サキに触れていた右腕が火照っているのに気付いて、私は軽く手で撫でた。
「いくら恋人って言っても、体温調節に支障が出るまで四六時中くっついているものではないと思うわ」
「そうかな? でも、ガイドラインだと推奨されてるよ」
サキが取り出した小冊子の表紙には、ポップなフォントで「しあわせガイドライン」というタイトルが、その下には笑顔のカップルが何組か描かれている。
「えぇ、えぇ。ガイドラインは嫌ってほど読んだわ。今こうしてあなたと過ごしているのも、それのおかげだもの」
「そんなにいらいらしないでよ」
「じゃあ、学校でもないのにそんなくだらない本を持ち出してこないでほしいわね」
「でも、幸せは大事だよ?」
サキが冗談めかしてけらけら笑う。いつもは「しあわせガイドライン」をネタにして冗談を言い合っているはずなのだけど、今日は無性に腹が立った。
「あのねぇ……じゃあサキは、ガイドラインに書いてあることならなんでもするの?」
いらいらなんてしたくない。エアコンを付けたくないし、無駄な雑音だって聞きたくない。本当はサキとも言い争いたくないのに、私の口は止まらない。
「あははっ。なにそれ」
サキが一段大きな笑い声を上げて、我ながら馬鹿なことを訊いたと思った。サキは冊子を床に放り投げて、それから私の胸に顔を埋めた。鼻が押し当てられて少しくすぐったい。頭が揺れるたびに、ちょっとだけシャンプーの匂いがした。
「私はユキと違って、ちゃんとユキのことが好きだもん。二人きりの時くらいはくっつきたいって思ってるよ」
もごもご喋るサキの「好き」という言葉にずきっとする。心に向かってゼロ距離で語りかけられているのに、それでも彼女の「好き」は私の少し横をすり抜けていく気がした。
「ガイドラインなんてただの言い訳だって、今更言わなきゃ分からない?」
「そうね。ごめん、言い過ぎたわ」
ちらと横を見ると、床に捨てられた冊子から、不自然なほどに張り付いた笑顔のカップルがこちらを見ているような気がした。偽物の幸せの象徴だ。
「ねぇ、サキ。私はね――」
「――やっぱり、『恋人』の私といるのは嫌かな?」
背中に腕を回そうとしたあたりで、彼女が起き上がって私を見上げる。私は伸ばした手を引っ込めて彼女の視線に応えた。
サキの目はどこにも逸れずに私だけを向いていて、まるで私のことを全部見透かしてやろうとでもいうような、そういう確信めいた意思があるように見えた。
「そうじゃないの。私、ただ……」
ただ、なんだろう? 私のことを好きでいてくれて、好きだと素直に伝えてくれる人がいる。私はそれで幸せなんだろうか。私はサキを好きになれるだろうか。
まっすぐ向き合おうとするサキに、私はなんと答えるべきなのか分からない。
「なんてね! 冗談だよ」
そうして私が何も言わずにいると、サキが急に沈黙をかき消すようにしておどけてみせた。私はそれに応えて小さく笑ってみせる。ここからはお互い踏み込まないよ、と確かめ合うように。
もう沈黙が苦しい仲でもないはずだけど、彼女も何かが怖くて、何かを隠したいんだと思う。でも、そうやってわざとらしく強がった笑顔が、私は嫌いだ。
最近、サキのことを考えて何も手につかなくなるときがある。そういう時に、エアコンが風を送る音すらもひどく耳障りに感じることがあった。
「ふぃー。涼しくて最高だよ」
ドアを開けると、廊下に涼しい空気が流れ込んでいくのが分かった。氷入りの麦茶を手渡すと、サキはそれを一気に半分ほど飲んでしまう。
「急にたくさん飲むと、お腹が痛くなるわよ」
私がそう言うと、サキは大丈夫だよと答えてグラスを振ってからからと鳴らす。そして、得意げな顔をしてもう半分も飲み干してしまった。
「我慢は幸せじゃないよ。ユキは幸せですか?」
「はい、幸せです。美味しいソーダがあるんだもの」
お決まりのやり取りの真似をして、くすっ、とサキが小さく笑った。
炭酸水が入った瓶に耳を当てても、封をしたままでは泡の弾ける音は聞こえない。頬が冷たくて、このの中だけ時間が止まっているみたいだ。
瓶の向こうにぐにゃりと歪んだサキの像が見える。どうしてか、この瓶が割れたら一緒に彼女まで消えてしまったりしないかと、少し変な想像が浮かんできた。
「私は好きじゃないなぁ。ちょっと苦いし」
「味覚がお子様なんじゃない?」
「ふふっ。うん、冷たい麦茶が大好きなお子様だよ」
溶けて小さくなった氷が、からりと音を立てて沈んでまた泡が立った。くすくすと、動き出した時間を喜ぶようにして。
「ん、美味しい」
グラスの底に付いた雫が、じわ、とコースターに滲んだ。
サキも、こんなに透明だったら良いのに。隅から隅まで見通して、どこに気泡があって、どこに氷があるのかを触れずに確かめられたなら。
私はサキのことを何も知らない。
ふわふわとした癖っ毛に、吸い込まれそうな瞳と、柔らかそうな唇。私より背が低くて小さな身体なのに、いつもその唇の端をにこりと引き上げて、どこまでも引っ張ってくれそうな元気な声で私を呼ぶのだ。
細くてまっすぐな首からなだらかに続く肩のラインと、服の下に隠れた女の子らしい丸み。日に焼けた彼女の身体に、制汗剤の良い匂いをふりかけて。
私が知っているサキは、こんな外向きの彼女だけだ。ねぇサキ、その中には何を秘めてるの?
突然隣にやってきた彼女は、私が好きだと言った。でも、サキは本当に私が好きなの? ねぇ、どうして笑っているの? 何がそんなに嬉しいの? もっと色んな表情を見ないと、サキのことが分からないよ。
サキは私と向き合う時にだけ、何かを守るようにして私に笑顔を向けるのだ。
素直に尋ねたところで、きっと、何も隠してないよと言うんだろう。彼女に触れて中を覗こうともせずに、そんな確信じみた考えが頭を支配する。
どうしたら、サキの色んな表情が見られるだろう。例えば、そうだ――
「ユキ、なんかぼーっとしてる?」
と、いつの間にかグラスを注視していたらしく、気付くとサキが私の視線を遮るようにして心配そうに覗き込んでいる。
「え、あ……な、なに?」
「ん? 考えごとしてる表情も好きだなーって」
首を傾げると髪が揺れて、またシャンプーの香りだ。
サキはここに来る前に、私に会う前に、シャワーを浴びたのだろう。私から見える彼女は何もかもが綺麗で、だからきっとそうだ。
「考えごとだなんて、そんな大したことじゃないわ」
「じゃあ、何考えてたの?」
私のことで頭がいっぱいだったのかな、と冗談めかした口調に、私は思わず口が滑ってしまう。
「……ねぇ、サキの首を締めたら、どうなるのかしら」
「首絞められたら、私、死んじゃうよ?」
サキが目を丸くして、少し黙って、それからやっとそう言った。ただそれだけ。
彼女は私から離れるために後ずさりするわけでもなく、細くて絞めたら千切れてしまいそうな喉元を手で守ろうするわけでもない。無自覚か、あるいは自覚的な無防備さに誘われているような気がした。
「だめ。首はだめだよ」
しかし、私のそんな視線に気付いたのか、サキは私の手を自分の膝に押し付けて動けないようにした。右手で左手を、左手で右手を。握られた手に引かれて上半身もぐいと前へ傾いてしまう。バランスを崩しそうになるのに合わせて、ぐに、とサキの太ももに体重が掛かっていく。
「ち、違うのよ。そういうことじゃなくて」
顔がぶつかりそうになるのも気にせずに、サキは手を握ったまま私をじっと見つめていた。
「分かってるよ。私のこと、考えてくれてたんだよね」
いいことじゃないみたいだけど、と付け足してから、サキは私の手を離す。視線がふらふらと空中を舞った。
「もっと、ユキの考えてること……教えてよ」
そう言われてサキの細い首をちらと一瞥すると、一瞬だけ呼吸が乱れるのを自覚した。
起こした身体を戻して姿勢を正すと、彼女の首元を意識した時から、あるいはその前から、自分の心臓がいつもより速く鼓動を打っていたことに気付く。
「私、サキが何を考えてるのか分からないの」
「どういう意味? 私はずっと、私のままだよ」
そんなことない。絶対に。
人には外からは見通せない不透明な部分がある。誰だって、私だって。サキはそういう秘密がいっぱいあるように見えるけれど、同時に私だけがその秘密を知らないような感覚に襲われることがあった。
「私、見てみたいの。あなたがどんな風に怒るのか、どんな風に泣くのか、どんな風に……」
「どんな風に、苦しむのか」
私の沈黙に合わせて、サキが付け足すように呟く。
「首を絞めたらどんな表情になるか、見てみたいの?」
想いが洪水みたいに溢れてしまっては、自分の考えがすっかり知られてしまうのを止めることはできない。それでも改めて言葉で指摘されると、じわじわと心臓を掴まれたような心地がする。
言葉を発せなくなって、私はただこくりと頷いた。
いつの間にかエアコンは止まっていて、もう仕事を終えたとでもいうように黙りこくっていた。確かに部屋は涼しくて過ごしやすくなったけれど、意識せずにいた沈黙が急に意識に上がってきて、ちくちくと心をつついてその快適さを奪っていく。
「私、ちゃんと笑えてなかったかな」
そんな沈黙を破るようにして、サキがぽつりと呟いた。
「……ち、違うわ。私が勝手に思ってるだけで」
「でも、私の笑顔がユキを追い詰めてちゃってる」
そう言って、にこ、と口元を動かした。
違う。サキが私のことを好きでいてくれるなら、私もサキのことをちゃんと知りたい。ただ、それだけで。
別に彼女のことが分からなくたって、私が悩んで追い詰められるなんてことは……たぶん、ない。
「だから、私はサキのことを殺したいわけじゃないの」
安心して、と言うとサキがけらけら笑った。
「首を絞めたいけど安心してって、何だか面白いね」
「そう……かしら?」
「やったこともないのに、自分はぎりぎりで自制できるんだって信じてるみたい」
「そんなこと――」
「じゃあ、やってみる?」
サキが鎖骨の辺りに手を置いて、首を前に差し出した。そのゆっくりとした動きがまた私の胸を高鳴らせる。暖かそうにも冷たそうにも見える肌に少しでも触れたら、私はどうにかなってしまうかもしれない。
「あは。また、怖い目だよ。だめだめ」
「あ、ご……ごめん」
おそらくはサキの予想以上に効果のあった挑発はすぐに終わって、また私の手を引く拘束の姿勢に入った。
心がそのまま瞳に表れているのなら、こうやって無理やり顔を近づけるだけでテレパシーみたいに全部知られてしまうだろう。
「サキって、意外と変態なんだね。抑圧されてたの?」
だから私は笑顔を崩したかっただけだと言おうと思ったけれど、それでは最初に思い付いたのがそんな手段だったことを説明できないのも分かっている。
自分がいつの間にかおかしくなっていたのかと思うとひどく恐ろしいけど、少しだけ誇らしい感じもした。
「そうかもね。自分では分からないけど」
グラスから、小さくぷちぷちと泡の消える音がする。確かに時間は進んでいて、サキの心臓も動いている。
いきなりだった。
「ユキ。ちゅーしよっか?」
そう言って、サキはずいと顔を寄せてきた。さっきからただでさえ近かったのに、キスと言われて詰められたその距離が急に恥ずかしくなってしまう。
「顔が近くて、暑苦しいわ」
「当たり前だよ。顔を近づけないとできないもん」
私を下から見つめるサキの唇はとても柔らかそうで、したこともないキスの想像が頭を巡る。私がそんな想像をするみたいに、彼女の鼓動も速くなっているといい。
「もっと、ムードを大切にしてほしいわね」
「でも、ずっと唇見てたよね。したいんでしょ?」
そう言われて慌てて口元から目を離すと、今度はサキとばっちりと目が合った。じっと私の視線を観察しているサキの茶色くて綺麗な瞳を意識すると、どこに目線を移動させても私が欲情しているみたいで、文字通り目のやり場に困ってしまう。
「そもそも、恋人はキスをするものだよ?」
「サキ。こんな時まで、ガイドラインの話をするの?」
「ただルールを跳ね除けるよりも、勝手気ままに使ってるほうがずっといいからね」
「不真面目な活動家さんですこと」
ユキは真面目だから分からないかもね、とからかうように笑う。どういう意味か問おうと思ったけど、また煙に巻くような答えを聞くのも癪だったので、やめた。
「えぇ、分かりたくもないわ」
「そうだよね。サキは、それでいいよ」
それから私たちは何も言わずに何度か視線を交わした。サキが私を見ているのを意識するたびに視界がぱちぱちとして、徐々に興奮していくのが自分でも分かる。どちらかが、サキか私がキスを仕掛けるための茶番じみた儀式。
お互い手を使えないまま視線でやり取りをしていると、段々と瞳が熱を帯びてくる。
サキが無理やり私の唇を奪ったら、私はどうなってしまうだろう。不意打ちの責めに抵抗できなくなった私は、彼女の舌が私の気持ちいいところだけなぞっていくのに身を任せるしかないのかもしれない。
逆に、私からのキスだったら。きっと、私が目を閉じている間にサキは私の表情を見つめていて、愛おしそうに微笑むんだ。私は微かに目を開いてからやっとそれに気付くけど、その時にはもう遅い。
目が合うたびにそういう想像が吹き上がってきて、私はとうとう下を向いてその前戯じみたやり取りを拒否した。
「ねぇ、やっぱりキスはやめましょうよ」
「どうして?」
「恋人のふりなのに、キスをするのはおかしいわ」
誰も見ていないのに本当の恋人がするみたいなキスをしてしまったら、恋人のふりだなんて、もうそんな言い訳もできなくなってしまう。
「でも、私の色んな表情を見たいんだよね?」
だったらしちゃおうよ、と軽く言うサキに、私は何も言わずに目線で答えるふりをした。
「苦しい表情は見せてあげられないけど……私が照れてる表情なら、見れると思うよ」
彼女の唇の柔らかさや吐息の暖かさを感じながら、薄目で彼女を盗み見た時のサキの表情を想像すると、頬が熱くなった。サキが言うみたいに、恥ずかしそうにキスを味わう照れた表情が見えたなら。
「ねぇ、ユキ。私だってずっと我慢してるんだから、いい加減に覚悟を決めてよ」
そう言いながら、サキは私を拘束していた両手を離すや否や私を床に押し倒す。その自由は束の間で、彼女はすぐ私の身体を覆うように四つん這いになったと思うと、あっという間にさっきと同じようにそれぞれの手で私を押さえ込んでいた。
急にバランスが崩れて、思わず小さな悲鳴を上げたときにはもう遅い。サキの指と私の指が恋人みたいに絡まって、私の手はサキと暖まった絨毯に挟まれて身動きができなくなっていた。もう片方の手はベッドのそばに押し付けられているせいで、冷たいフローリングの固さが直接伝わってくる。
これは夢じゃなくて、本当に自分の部屋で起きている現実なんだ。全身に伝わる当たり前の感覚が、身体が動かない恐怖をじわじわと増幅する。
「ちょっと、やめて。離してよ」
私より身長の小さいその身体は、本気で突き飛ばしたら受け身も取れずに尻餅をついてしまうくらいに弱いはずなのに。肝心の私の腕に力が入らなくて、押しのけようにも手が動かない。女の子同士なら襲われても安心だなんてサキが嘯いていたけれど、あんなの嘘じゃないか。
「じゃあ、私を押しのけて。本当に嫌ならできるよね?」
サキの顔が髪に隠れてよく見えない。ただその声は、いつもより静かでゆっくりとしていた。
「もう、いいわ。好きにして」
「ふふっ。ユキ、本当に可愛いよ」
私が抵抗するそぶりを見せないと分かると、サキは私の枷を外して儀式の終わりを告げた。
頬にぴとっと落ちた雫を指で伸ばすと、まるで私が泣いているみたいだ。
サキが私の耳元に口を寄せたその一瞬、その思い詰めたような表情が見えて少しだけ嬉しくなる。
じゃあ、しちゃうね、ユキ。
私にだけ聞こえるような小さな声に、私は目を閉じて応えてみせる。
「ん、むっ」
サキの唇が触れる。最初は何度か、確かめるようにくっつけては離す。それから、ちろ、と冷たい舌が唇をなぞった。
やがて舌と舌が絡み合う距離まで詰められて、何度か暖かさを分け合うと、急にころっと何かが落ちてきた。
「ふぁ、冷た……」
口の中に落ちた鋭い冷たさが、舌と一緒に私を撫でる。冷たい飴はお互いの舌で段々と滑らかになっていって、最後に暖かい雫になって私の口に流れ込んでいった。
「ねぇ。私のこと、ちゃんと見てよ」
必死に唇をむさぼる私をからかうようにして、サキが口元でそう囁いた。お互いに目を閉じているとばかり思っていたけど、彼女はずっと私のことを見ていたらしい。
ずるいなと思いながら目を開けると、彼女の髪はまるでカーテンみたいに私を包み込んでいて、その暗い部屋の中で私たちは見つめ合う。
薄暗いサキの表情は、いつもよりもずっと魅力的だ。
私を見つめる目が、とろんとしていてだらしない。頬だって赤いし、吐息はくすぐったいくらいに熱くて荒い。本当は私をからかっている暇なんてないはずだけど、きっと私の表情はもっと彼女に筒抜けで、だから。
夏の暑さが私たちを柔らかくとろとろに溶かしているのに、そんな中で二人の舌でとろかしあうキスを交わしているんだから、もうどうしようもない。
たまに見えるちょっとした表情でも、まるでサキのもっと深いところを見ているような気がしてどきどきした。
「ふふっ、ユキばっかりずるい」
サキはそう言うと、私の口から小さくなった氷を奪い取る。また、私の口でとろとろ溶かすために。
見つめ合ってキスをするのは目を瞑って味わうよりも気持ちよくて、律儀にマナーを守るために目を瞑っていたのが馬鹿らしくなった。
「んっ、ぷは……」
何度かやり取りしているうちに、氷はすっかり溶けてしまって、とうとうふわりと消えてしまった。飴がなくなったから終わりだよ、というようにしてサキが顔を離す。
水気たっぷりのキスだったから、二人の間につつ、と糸が引くなんてことはなかったけど、口の周りは溶けた雫でびしょびしょになっていた。
押し倒した姿勢のまま、サキが私の髪に触れてするすると指で撫でる。
「髪の色、違うね」
「あら、今さら?」
サキの頭が揺れるたびに、彼女の癖っ毛もゆらゆらと私の髪の上をなぞっていく。サキから見ると、二人の髪が交じった模様に見えるのだろう。
「なんか、不思議だね。瞳の色は、二人で鏡に並ばなきゃ違いが分からないし」
私の髪をもて遊ぶサキの指の動きがなかなか落ち着かない。言葉を交わさずにただ指だけがくるくると回っていて、お互いに何かを待っているみたいだった。
そして、その動きが止まる。
「ねぇ、ユキ。もう一回、したいかも」
「……勝手にしてよ」
彼女の表情が少しだけ変わったのが分かる。えっちな顔だ。ちょっとだけ、サキに詳しくなれたのかもしれない。
「うん、勝手にする」
そう言うと、今度は炭酸水を口にして、水飴を食べさせるみたいにとろとろ流し込んでくる。
普通のキスは好みではないらしい。
「ふふ。しゅわしゅわ」
目を閉じて、私はこのまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。
キスが終わらなければ、こうしてとろけた表情を見ていることも、見られていることも後悔する時が来ないから。ぷちぷちとした炭酸の刺激に身を任せていると、私もサキも一緒になって氷水に溶けてなくなってしまえばいいのにと思ってしまう。
それから私たちはまた何度かキスをして、そのたびに溶けて角が丸くなった氷がサキの口に放り込まれた。暖かい液体が身体を満たしていって、頭までふわふわとした熱でいっぱいになっていく。
思考の端で、ぼんやりとエアコンが壊れていると思った。エアコンが止まっているのか、その駆動音が聞こえないくらいにキスに夢中になっているのかも分からなかったけど。
そんなことを繰り返しているうちに、とうとう麦茶のグラスは空っぽになってしまう。
「ユキの炭酸水、ぬるくなっちゃったね」
「そうね、新しいのを持ってくるわ」
思い出してみると、最初に一つ、それからグラスの半分くらいまで、四個か五個くらいは入れた気がする。
何の気なしに準備した氷が、まるで何度キスをしてほしいかを伝えるいやらしい儀式みたいで、空のグラスを見ていると何だか恥ずかしくなってしまう。
初めてのキスは、私が用意した水道水の香り。そんなこと、日記には書けない。
そっとグラスを手に取ると、手にほのかに冷たい雫がまとわりついた。立ち上がると、ずっと座っていたせいか少しくらくらする。
「ユキが氷を三個入れてきたら、また三回できるね」
「あなたの頭の中は、そんなことばっかりね」
「ユキだって、えっちな顔のままだよ」
同じことを考えていたのかと、一瞬びっくりした。
でも、サキの頬はキスの余韻が残っているみたいにほかほかで。たぶん、私もこんな表情をしてグラスを見つめていたからなのだろう。
「氷は五個入れてきて。一個多くても、少なくてもだめ」
「それは、あなたの好みね?」
「うん。私の好みだよ。お願い」
「お客さんの好みなら、仕方ないわね」
そういう意味のない確認が、まるで快感に身を任せるための言い訳を欲しがってるみたいで、何だかぞくぞくしてしまう。
部屋のドアを開けると、ごう、と急にエアコンが動き始めた。
あのね、ユキ。
泣くのを見られたくないっていうの、あたりなんだ。泣いてるのは、幸せじゃないから。これは私の勝手なしあわせガイドラインだけど。
好きな人の前でくらい、笑顔でいたいもん。